大判例

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大阪高等裁判所 昭和43年(う)936号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を懲役八年に処する。

原審における未決勾留日数中五〇〇日を右本刑に算入する。

理由

〈前略〉

検察官の論旨は、要するに、本件においては、任意性はもちろん信用性も十分にある被告人の自白のほか、これを裏付けるに足る証拠があるにもかかわらず、原判決が、本件につき、被告人の犯行と認めるに足る証拠がないとして、無罪の言渡をしたのは、結局証拠の価値判断を誤つた結果、事実を誤認したものであるから、原判決は破棄を免れないといい、弁護人らにおいては、原判決には事実の誤認がないというのである。

ところで、記録によると、本件の訴訟事実は、「被告人は自己の亡妻マチが生存中創価学会に入信し、関西第一本部大阪第九総支部今市支部大守地区田村班の守口市八雲旧八番二五六番地山田節治が組長である山田組に所属していたことから、同人の妻山田ヒサを知るに至つたが、昭和四〇年四月頃、同女からナショナル製中古ラジオ一台を二千円で買い受け、その代金の支払がのびのびとなつていたので、同女から自己や自己の姉である丹羽高に度重なる請求を受け、同年一〇月頃、千円、同年一一月頃千円をそれぞれ支払い完済したものの、右ヒサから右度重なる請求を受けたことに立腹していたものであるが、同四一年八月二五日午前八時頃、所用のため右山田節治方を訪れたところ、同人及び前記ヒサは共に不在であり、同人の長女山田良子(当時一〇年)が応待に出たが、同児から「おつちやん、ラジオの金は」と問われ、右ヒサは子供にまで未だ自分がラジオの代金は払つていないと言つているのかと考え、同女及び良子の両名に対しいたく憤激し、一旦同家を去つたものの、憤激の情押さえ難く、同市八雲旧八番二三八番地前田スタジオこと前田弘方北側路上まで来た際、たまたま付近のポリエチレン製ゴミ箱内から長さ約八二糎、幅約三糎の布製細紐(婦人服用バンド)を発見するや、この紐で右山田良子を絞殺し、そのうつぷんを晴らそうと決意し、直ちに再度前記山田節治方に引き返し、その頃、同家四畳半の間にいた同児の項頸部に右紐を巻いて絞めつけ、よつて間もなく窒息死するに至らしめて、殺害したものである」というのであり、これに対し、原判決が無罪の言渡をした理由は、要するに、本件は、被害者山田良子殺害の犯人が被告人であるという点について被告人の自白以外には何らの証拠もない事案であつて、(一)被告人の捜査官に対する自白には客観的事実と一致する点は多いが、捜査官の誘導によるものがあり、また真犯人でなければ供述し得ないといい得る供述は発見できず、(二)その犯行の動機、方法、犯行当時の状況等につき客観的事実に反し、または経験則に照らして不自然、不合理と考えられるものを含み、その自白は虚偽ではないかとの疑が極めて濃厚であり、(三)さらに、生活にも困るし、養老院に行くつもりで刑務所に入ろうと考えた末、虚偽の自白をしたという被告人の自白をなすに至つた事情等についての弁解が首肯し得るものがあることを考慮すると、被告人の自白はその信用性に疑があり、結局、被告人の自白以外に本件犯行と被告人との結びつきを示す証拠がない以上、本件はその犯罪の証明がなかつたことに帰するというのである。

よつて、以下原審で取り調べた証拠を検討し、当審における事実取調の結果をも参酌したうえ、判断するに、〈証拠〉によれば、前記公訴事実を認めるに十分である。すなわち、右各証拠によれば(一)被告人は昭和三三年秋頃から妻マチと守口市八雲西町二丁目一一一番地御園荘アパートに住み、電器部品の組立や筆耕等の内職をしながら生活保護を受けて生活していたものであること、(二)妻マチは昭和三七年頃、内職の斡旋をしてくれた田村文彦の紹介で創価学会に入信し、その後昭和三八年春頃創価学会の関西第一支部大阪第九総支部今市支部大守地区田村班の守口市八雲旧八番二五六番地山田節治が組長である山田組に所属するようになつたので、創価学会の連絡等で山田ヒサが養女良子を連れて時々妻マチを訪ねて来ることがあり、被告人も右良子を知るようになつたこと、(三)昭和三九年一〇月頃、マチは胃潰瘍で寝込むようになつたが、これを知つた山田ヒサは自宅にラジオが二台あつたので、その一台のナショナルホームラジオを被告人夫婦に貸したが、昭和四〇年一月一八日マチが死亡したので、被告人は同年二月末頃、一旦、このラジオを山田方に返却し、その後右ヒサに右ラジオを譲り受けたい旨申し出て、同年四月初頃、代金二、〇〇〇円で譲り受けることとなり、被告人は再びこのラジオを自宅に持ち帰つたこと、(四)その後被告人がラジオの代金二、〇〇〇円を一向に支払わないので、山田ヒサが再三にわたり被告人方を訪ねて支払方を要求したが、被告人は不在勝ちで、また被告人と会つて支払を約束しても、その約束を果さないので、ヒサも業をにやし、守口市八雲旧八番二七七番地に住む被告人の実妹丹羽高方へ四、五回にわたつて催促に行なつたりしたため、被告人は昭和四〇年一〇月頃一、〇〇〇円、同年一一月一、〇〇〇円を山田ヒサに支払つて完済したが、ヒサの度重なる請求に憤慨していたこと、(五)被告人の亡妻マチが生存中、創価学会に入信した当時、同女は創価学会の御本尊を自室に祭つていたが、同女が死亡後、残つた被告人がキリスト教を信仰しているということから、学会の小林友二から山田ヒサに対し被告人方の御本尊を返してもらつてお寺に納めてはどうかという話があり、昭和四〇年四、五月頃、ヒサが被告人を訪ねて御本尊を返してくれと頼み、その際は被告人は何げなく御本尊をヒサに手渡したが、同年一二月頃になつて亡妻の一同忌も近づいて来た頃、御本尊は亡妻が金を出して寺から受けて来たものであり、山田が持ち帰るのはおかしいし、御本尊を返してもらつて亡妻のためにお祀りしてやろうと考えるようになり、山田方を訪ねて御本尊を弁してくれるように頼んだが、ヒサと問答の結果、「田村班長に尋ねてお祭りしたらどうですか」と言われたのであるが、被告人はヒサが田村班長に尋ねてみると言つたものと思つていたところ、ヒサから何の連絡もないまま経過し、昭和四一年八月二五日朝御本尊のことを思い出し、これを取り返そうと思い立つて、午前八時過に自室を出たこと、(六)山田節治は大阪市天王寺区上本町九丁目九五関西ビニール会館内近畿装美株式会社に室内装飾の職人として働き、山田ヒサは自宅から近い守口市八雲本町二三六天星紙器株式会社の女工として勤めていたので、被告人はヒサが会社に出勤する前に同女と会うため朝早く山田方を訪ねたが、丁度節治もヒサも出勤したあとで、学校が夏休み中の小学校五年生の養女良子が独り留守番をしていたこと、(七)被告人は同日午前八時過頃山田方を訪ね、玄関の戸を開けて入り、声をかけると、良子が出て来たので、「お母さんは」と尋ねたところ、同女が「もう会社へ行つた」と返事をしたので、被告人は仕方がないと思つて帰りかけたところ、同女が「おつちやん、ラジオのお金は」と言つたので、被告人は「ラジオのお金なんか払つたよ」と言つて玄関を出たが、そのとき被告人はヒサがあんな子供にまでまだ自分がラジオの代金を払つていないといつているのか思うと、生来の短気かつ偏倚な性格からヒサや良子に対する憤激の情がこみあげて、山田方から南の方へ行きバス通りに出ようとして、前田スタジオこと前田弘方北側路上に来たとき、路端に置いていたポリエチレン製ごみ容器から垂れ下つていた長さ約八二センチメートル、幅約三センチメートルの婦人服用バンドの布製細紐を発見するや、この紐で良子を絞殺してそのうつぷんを晴らそうと考え、その細紐を取り出してこれを持つて山田方へ引き返したこと、(八)被告人は山田方玄関の戸を開けると、良子は四畳半の間のピアノの椅子に腰をかけていたが、土間に入る被告人の姿を見て、びつくりしたような顔で椅子から立ち上つたので、同女に対し、すごいけんまくで「お母ちやん、まだラジオ代払わんと言つていたか」と声をかけたが、同女は怖がつて「お母ちやん」と叫んだので、被告人は瞬間的に近所に聞かれたり、人が来たりすると大変だと思い、履いていたつつかけをぬいで四畳半の間にあがり、良子に近よるや否や、両手に持つた細紐を同女の頸に巻きつけて紐の両端を持つて引張つて絞めつけ、数分間同女の頸を絞めつづけるうちに、立つていた同女がひざを折るようにして頭を奥の方に向けて倒れたので、被告人は左足を立てひざにして同女の頸に巻きつけていた細紐の交差した部分を右手の示指と中指の二本の指を交差している紐と前頸との間にそう入して持ち、絞めかげんにねじり、左手で紐の端の方に結び目を二つ作り、次に反対に左手で交差する結び目を持ち絞めかげんにねじり、右手で同じ様に紐の端に結び目を二つ作り、両方の結び目のところを持つて力一杯横に引つ張り、同女の頸をしめつけ、二、三分絞めつけているうち同女がぐつたりとなつたので、被告人は同女が確実に死んだと思つたが、念のため、紐の交差しているところでこま結びにし、紐をしめたままにしておいたこと、(九)その後被告人は玄関に人が入つて来たとき倒れている良子の足もとが見えないように同女の死体の位置を動かし、頭がほぼ北東、足の方がやや西南に向くようにし、奥の六畳の間の北側の押入れからタオルケット二枚を取り出し、一枚を死体の下に、一枚を上にかけ、同家の玄関から出て逃走したこと、(十)屍体解剖の結果、良子の死因は項頸部絞扼による窒息死と鑑定されたことを認めることができる。右認定事実によれば、被告人が被害者良子を殺害したものと認むべきである。

ところで、本件犯行の犯人が被告人であるという点については、被告人の自白以外には何ら証拠がないことは、原判決もこれを指摘するところであるが、原判決は被告人の自白は信用性が極めて疑わしいといい、弁護人は被告人の自白の証拠能力ないし任意性及び信用性を争うので、この点について順次検討することとする。

一、自白調書の証拠能力ないし任意性について

弁護人は、本件についての被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付供述調書は、詐欺の被疑事実によるいわゆる別件逮捕、勾留中に作成された違法なもので証拠能力がなく、従つて右調書を証拠資料としてなされた本件殺人の被疑事実による逮捕、勾留は違法かつ無効なものであつて、その間に作成された司法警察員及び検察官に対する供述調書もすべて違法証拠であり、証拠能力はないと主張する。

よつて案ずるに、いわゆる別件逮捕の当否については、捜査官は犯罪及び真犯人の迅速な発見と確実な証拠の収集について刑事訴訟法上の義務を負つているのであるが、そのために能率的、かつ、効果的な方法であるならば、いかなる方法といえども許容されるというものではなく、自ら司法的抑制があるところ、捜査官が、本命の犯罪の取調を目的として、別の被疑事実について逮捕状を求め、その逮捕・勾留状に記載されている基本的な被疑事実については取調の意図がなく、それによる身柄の拘束を専ら未だ犯人を特定するに足る資料のない本命の犯罪についての自白追及のために利用するという場合は、身柄を拘束されている被害者の防禦権が十分に保障されないで、捜査官の自由な強制捜査を是認することになり、ひいては、身柄の強制処分に関する憲法第三三条に定める令状主義を逸脱する結果を招くことになるから違法といわなければならない。しかし、捜査官において、ことさらに右逮捕・勾留を利用する目的に出たものではない場合には、その基本的な被疑事実の取調に当つて、捜査はこれに限定されず、これと平行して未だ犯人を特定するに足る資料のない犯罪事実についての取調ができないというものではなく、後者の犯罪について取調を著しく不当と認められない限り、右逮捕・勾留の手続をもつて違法ということはできないものと解するのが相当である。これを本件についてみると、本件記録並びに原審及び当審で取り調べた証拠によれば、被告人の取調の経過について次の事実が認められる。すなわち、昭和四一年八月二五日に本件殺人事件発生後守口警察署に捜査支部が設けられ、同署藤野巡査もその捜査員として、被害者の山田方出入関係者について聞き込み捜査に従事中、同年九月初旬、被告人が同年三月一七日頃守口市暁町三八番地朝日化工株式会社守口工場において、同社事業部長国富竜志に対し女子工員二名の雇い入れ周旋方の偽りを申し向け、応募女工の旅費名義で四、〇〇〇円を騙取したとの事実及び同年八月三一日頃同市浜町一丁目一九番地朝日化工株式会社事務所において、事務員から同会社の内職をしている沖田民子の加工賃三、六八〇円を騙取したとの各詐欺の容疑が判明し、前者の詐欺の被疑事実に基づき同年九月一二日枚方簡易裁判所裁判官の逮捕状発付を得て、同月一五日午前三時四〇分被告人を逮捕し、大阪府警本部捜査第一課の楊枝寿男巡査部長、原巡査が旭警察署において詐欺の被疑事実について取調を開始し、午前一〇時頃から前記藤野巡査も加わつて取調に当つたが、被告人は当初から詐欺の犯意を否認し(被告人は当審においてはすぐに自白したというが、原審第七回(七〇四丁)第八回(七三八丁)公判においては否認した旨供述している。)、午後の取調中に、初めて、右逮捕にかかる被疑事実及び前記沖田民子の加工賃詐欺の事実の概略について認めるに至つたので、同日右藤野巡査において供述調書を作成し、翌朝、楊枝、原両警察官において詐欺事実について取り調べたのち、午前中に検察官に送致して、検察官において勾留請求の手続をとり、逮捕状記載の詐欺事実につき大阪地方裁判所裁判官の勾留状の発付を得て、同日午後二時五〇分同裁判所でこれを執行し、直ちに旭警察署に連れ帰つたうえ、右楊枝、原両警察官が被告人に対し詐欺事件の取調と平行して山田方への出入関係、知合関係について克明に事情を聴取していたところ、午後五時頃、突然、被告人から「心の整理をしたいから、今日はこれまでにして明日まで待つてほしい」という申し出があつたので、その日の取調を打ち切つたこと、楊枝巡査部長は同月一八日(日曜)に行なわれる警部補試験受験の準備もあつて、一七日、一八日の両日の取調は捜査支部の副班長の藤沢伝警部補と原巡査の両名がこれに当り、一七日午前一〇時頃からの取調において、午前中に被告人は本件殺人の犯行について詳細な自白をするに至り、同日午後五時頃供述調書が作成され、翌一八日も藤沢警部補らが取り調べたが調書は作成されなかつたこと、捜査本部では被告人の右殺人の自白に伴い、同月一九日(月曜)大阪地方裁判所裁判官から殺人の被疑事実による逮捕状の発付を得て、同日午後五時三分これを執行するとともに、検察官は同時に前記詐欺事件の勾留を解いて被告人を釈放し、次いで同月二一日同裁判所裁判官から殺人事件について勾留状の発付を得て、同日午後二時四分これを執行したこと、楊枝巡査部長、原巡査はその後数回にわたり被告人を取り調べ、いずれも詳細な自白を得て供述調書を作成したこと、警察から事件送致を受けた田代則春検事は、被告人取調の当初、被告人を連れて来ていた警察官を退室させたうえ取り調べ、被告人が詳細に自白した後入室させ、四回にわたつて供述調書が作成されていること、被告人は同年一〇月八日殺人罪で大阪地方裁判所に起訴されたことが認められる。以上の経過に徴すると、捜査官において詐欺の事実について取調の意図をもつて、現に、その逮捕及び勾留後その事実について取り調べているのであるから、詐欺の事実による逮捕及び勾留を、もつぱら当時未だ逮捕、勾留をなし得る程度の資料を具備していなかつた殺人事件を取り調べる目的で請求し、かつその取調に利用したものとは認められないし、さらにまた、詐欺の事実につき勾留状を執行して帰署直後、詐欺事件についての取調とともに山田方との知合関係、出入関係につき事情を聴取中、心の整理をしたいという申し出があり、翌日自発的に自白したものであつて、その翌日の日曜日をおいて一九日の月曜日に、殺人の被疑事実による逮捕状を得てこれを執行し、同時に詐欺事件について釈放の措置をとつたものであるから、その間の手続に不当があるとはいわれない。結局、当初の逮捕、勾留を目して違法、不当なものとはいわれないから、その勾留中になされた自白を録取した被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付供述調書の証拠能力もその故をもつて否定することはできず、従つて第二次の殺人の事実による逮捕、勾留も適法であるから、その勾留中になされた自白を録取した被告人の司法警察員及び検察官に対する各供述調書の証拠能力も右の故をもつて否定することはできない。

さらに弁護人は、被告人は警察での取調の際、楊枝、原両警察官から強制、誘導をされたから、その結果に基づく司法警察員に対する供述調書は任意性がなくまた検察官の取調の際には、右楊枝巡査部長や原巡査が常時これに立会つており、のみならず、その取調の間に、右両警察官は被告人に手錠をしたまま中之島公園を散歩させているから、被告人の検察官に対する供述調書も任意性がない、といい、これにそう被告人の原審及び当審における供述があるけれども、〈証言〉によれば、各警察官は被告人が老令の身であることを考慮し、事案の特質を考えて取調にあたり、強制、拷問、脅迫、その他供述の任意性を疑わせる事情はなく、検察官は取調の最初、警察官を退室させて、被告人を取り調べるなど注意を払つて被告人が自供するのを聴いており、また検察官の取調の段階で原巡査と守口署の警察官二名が被告人を連れて検事室の前で二、三時間その取調のあるのを待つている間に気晴らしのため被告人を連れて裁判所の前の川ぶちに出たに過ぎないのであつて、手錠をはめたまま引き回したというものではなく、検察官の取調について強制、拷問、脅迫、その他供述の任意性を疑わせる事情は存在しないから、弁護人の前記所論は採用しがたい。

二自白の信用性について

検察官は被告人の本件自白は信用性があるというのに対し、弁護人はこれを争い、原判決はその信用性がないとして、その理由について詳細に判断しているので、主として原判決の説示する点につき、検察官及び弁護人の所論を考慮しつつ、順次検討を加え、被告人の自白の信用性の有無について判断することとする。

(一) 客観的事実に一致する被告人の自白の信用性について

(1) 原判決は、被告人は、司法警察員に対する昭和四一年九月二八日付供述調書、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において、当日の良子の服装は「柄模様の袖なしか、半袖の上衣に白つぽい色の短いスカートのようなもの」と述べ、司法警察員作成の同年八二九日付検証調書添付写真一六三号ないし一六六号のものとほぼ一致するが、被告人は、右供述は自らが夏の小学生一般の服装を想像して述べたと弁解し、右服装は一応常識的な女子小学生の夏の服装の描写といつてよく、また、同女の服装の特徴である青色ふち取りのあるショートパンツを摘示できず、上衣の色についての供述がないことを考えると、右弁解は必ずしも不合理ではない、というのである。

しかし、右被告人の司法警察員及び検察官に対する供述は、被告人が自発的に供述した旨自認しており、上衣は柄模様が一般的とは限らず、無地のものも多く、また下の着衣も白つぽいものが一般的とは限らず、色ものも多いのが常識であり、さらにまた、夏の女子小学生の服装は上下が別々に分れているもののみではなく、ワンピースさらに屋内ではシミーズの服装も常識的に考えられるのであつて、上下が別々に分れていたとの供述は、被害者の着衣の特異性を表現したものというべきである。そして、平常会わない女の子にたまたま一寸会つただけでは、相手の服装が上下に分れていたか、着衣のおおよそのことについては記憶に残つていても、下の着衣がショートパンツか短いスカートであつたかの区別や、ショートパンツに青色のふち取りがあつたことや、上衣の色模様についても、白地にバラの葉と花の様模であつたことなど、こまかい点まで、それも、日時を経た後にその記憶を要求することは難きを強いるものであり、これらの点についての供述がないからといつて、また若干供述が異なることがあつても、それは無理からぬところであつて、直ちに被告人の司法警察員及び検察官に対する供述を不合理とし、被告人の前記弁解を合理的とすることできない。

(2) 原判決は、被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付、同月二八日付各供述調書、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において、「山田方の表を南にバス通りに出る南側の角の家の北側路上を歩いているとき、その家の横に高さ二尺ぐらい直径一尺二、三寸ぐらいの水色ポリのごみ箱の蓋が少しあいて、その口から紐がたれ下つているのに目がついた」旨供述し、右供述のうち、ごみ箱の存在場所及びその形態についての供述は、前記司法警察員の検証調書及び司法警察員作成の「ポリエチレン製ゴミ容器についての捜査復命」と題する書面によつて認められ、当時山田方の道一つ隔てて南側にある前記弘方北側勝手口東寄りに高さ四六センチメートル、直径四二センチメートルの水色ポリエチレン製ごみ容器が直かれていた事実と一致するが、被告人は、原審第七回公判において、右供述は、守口市では各戸に同じポリエチレン製ごみ容器を配付し、どの家もこれを勝手口に備えつけることになつているという事実に基づいて述べたものであると弁解し、右前田方のごみ容器が右と同じものであり、そして被告人が本件犯行日以前に山田方を訪れ、同人方附近の地理を知つていたことも明らかであるから、被告人が本件犯行を犯していなくても、容易に客観的事実と一致する供述をなし得るものと考えられる、というのである。

しかし、ポリエチレン製ごみ箱の蓋が少しあいてその口から紐が垂れ下つていたということは特異なことであり、被告人は、右ごみ箱の存在については自発的に供述した旨自認しており、その存在場所が客観的事実と一致していることからすると、被告人の供述は真実を語るものと認めるべきであつて、果して、原判決のいうように、被告人が本件犯行を犯していなくても、前記供述をなし得るものかは、甚だ疑問であるといわなければならない。

(3) 原判決は、被告人は、紐の形状について、司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付供述調書において「一尺七、八寸、幅一寸余り、木綿のような生地で青色インク色の縞柄が入つており、しつかりした紐」と述べ、司法警察員に対する同年九月二八日付供述調書において「長さ二尺足らずで幅一寸ぐらい、袋縫いのもので白地に青いインク色の糸のような線が入つたもの」と述べ、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において「白い紐で青い糸のような筋が入つていた、長さは一尺五、六寸ぐらいであり、袋縫いしたものだつた」と述べ、良子殺害の用に供されたものと思料される押収にかかる紐の形状をかなり正確に言い当てているが、被告人は、原審第七回公判において、「自分が良子の殺害されたことを知つたのは、昭和四一年八月二七日頃(原判決に九月二七日頃とあるのは八月二七日頃の誤記と認める。)で、妹丹羽高から聞いて初めて知つた」と述べ、原審第一三回公判において、「それから二、三日後、毎日新聞の記事を読んで、犯行の用に供されたものが、婦人服のバンドか前かけの紐であると書いてあつた。そして自分が自宅アパートで逮捕されたとき警察官が自分の藍色の横縞の入つた木綿の浴衣のかけ襟を発見し、持ち帰つていたので、警察で紐の形状について問われたとき、新聞記事の内容から想像し、また右のかけ襟のことを思い出して答えたものである」と弁解し、さらに原審第一回公判において、本件犯行を認めながら、裁判長から紐を示された際「はつきり覚えていない」等とあいまいな供述をしたが、この点について、被告人は、原審第七回公判において、「自分の浴衣の襟から考えて横縞と想像し警察でもそのように述べたつもりでいたところ、裁判所で初めて紐を見たら、縦縞であつたので、見覚えがないと答えたのである。」と弁解している。もし、被告人が真犯人であつて、右紐を実際に犯行の用に供したものとすると、右紐を示されたときに、それが犯行の用に供したものだというはつきりした記憶を再生できないというのは、おかしいことであり、何故第一回公判で本件犯行を認めながら、右紐についてだけあいまいな供述をしたか理解に苦しむところであつて、むしろ、第七回公判での供述に信を置く方が合理的であり、司法警察員の検証調書添付写真第一五号によつて認められる被告人方アパートに横縞の浴衣が残されていたこと、証人丹羽高の証言により認められる良子が殺害されたことをテレビニュースで知り、事件後二、三日のうちに被告人に話したことなどを考え合わせると、被告人の逮捕に赴いた警察官の証人楊枝寿男の、浴衣の襟はもちろん被告人方から何も持ち帰つたものはないとの証言を信用して、被告人の前記弁解を直ちに虚偽のものであると断定することはできない、というのである。

しかし、被告人が毎日新聞の記事を読んだという点については、被告人は司法警察員に対する昭和四一年一〇月一日付供述調書において「スポーツ新聞は毎日のように読むが他の新聞は平素あまり読まない、この事件後もスポーツ新聞を読んだだけである」旨述べているところからすると、原審第一三回公判に至つて毎日新聞で紐についての記事を読んだ旨の供述が果して真実であるか疑いが持たれるところであり、また原審第一回公判において、被告人が初めて実物の紐を見せられた際に「はつきり覚えていない。」と述べたのも、被告人が犯人であつたとしても、本件紐を手にしていたのはわずかの間のことであり、しかも、犯行後第一回公判まで約二カ月二〇日を経過していて、その間、全然実物を見せられていないのであるから、紐の細かい点についてまで記憶を再生できなかつたからではないかと考えられ、また、犯行否認後の原審第七回公判において、自分の浴衣の襟から考え横縞と想像し、警察でもそのように述べたつもりでいたとの弁解については、前記被告人の取調官に対する供述では最初「青色インク色の縞柄」と述べていたのが、次からは「白い紐で青い糸のような筋が入つていた。」と述べているのであるが、これは縞柄の模様をさらに細かく供述したものというべきであり、3ないし3.3センチメートル幅の紐で糸のような筋とは果して横縞を指しているものと見ることは疑問であつて、縦縞を指して述べているものと受け取られるところであり、また被告人は原審第一回公判において「細かくすじの入つたものとは思いませんが」と供述したに止まり、縦縞か横縞かについては何らふれていないことからすると、右の弁解は、自己の否認の弁解をことさらに理由づけようとするための供述ではないと疑わしめるふしがある。そして本件紐については、被告人は捜査段階ではその実物を示されたことはなく、原審第一回公判で初めて見せられたもので、捜査官の示唆誘導によつて供述したものでないことは、当審証人藤沢伝の証言及び被告人の原審公判廷での供述によりうかがわれるところであつて、それにも拘らず、実物の形状についてかなり正確に供述していることは、十分その真実性を物語るものと考えられる。

(4) 原判決は、被告人は、司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付、同月二八日付各供述調書、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において、「被告人が紐を持つて山田方に引き返し玄関内に入つたとき、良子は同家四畳半の間のピアノの前の椅子に腰かけていたが、被告人の姿を見て立ち上つたので、すぐに飛びかかり同女の頸部に紐をかけて絞めると、同女がピアノの前付近に頭を西方にして倒れた。」旨述べ、前記司法警察員作成の検証調書、滝川昭二作成の鑑定書により認められる本件犯行後右ピアノの西端前あたりの畳の上に良子の鼻口部から出たと思われる血液が付着していた事実及び藤本勇子の司法警察員に対する供述調書により認められる本件犯行後二人掛用のピアノの椅子が右四畳半の間中央あたりに倒れていた事実と一致するが、被告人は、原審公判において、「右供述は、すでに数回山田方を訪れて四畳半の問のピアノ等家具の存在場所を知つていたので、それに基づいて創作したものであり、また良子の首の右横で紐を交差するなり絞めたと供述したのは、その前にピアノに向つていた同女が立上つたとき、近づいて行つて首を絞めたと供述したので、それなら、そのように同女の首の右横で紐を交差するようになるはずだから供述したのである。」と弁解し、被告人が本件以前に数回山田方を訪れた事実があり、ピアノ等家具の存在場所を知つていたことは充分考えられるところであるから、被告人の弁解を一概に排斥できない、というのである。

しかし、被告人がピアノの存在を知つていたからといつて、被告人が同家に引き返した際に、良子がそのピアノの前にいたと創作して述べることが当然のこととは考えられない。被告人は、司法警察員に対する昭和四一年九月二八日付供述調書、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において、被告人は、「初め山田方に行なつたときには。」良子は奥の方から出て来たと述べているのに、引き返して山田方玄関に入つたときには、「良子はピアノの前の椅子に腰かけていた。」旨述べ、そして「ピアノは弾いていなかつた、椅子から立ち上つてピアノの方に向いたまま顔だけ玄関に入つた被告人の方に向けた。」という点まで供述しており、当審証人山田ヒサに対する尋問調書によれば、本件犯行前には玄関四畳半の間には玄関に近くビニール簾の衝立が立てられており、当審の検証調書によれば山田方玄関土間より被告人の目の高さ(一四八センチメートル)の位置から、高さ105.5センチメートルの衝立の向う側に身長一三三センチメートルであた良子と同身長の者が高さ四八センチメートルのピアノの椅子に腰かけている姿を見た場合に、衝立の上にその頭部の一部を見ることができ、また衝立のビニール簾を通してピアノの椅子に腰かけている人の姿は勿論、四畳半にいる人の姿がすけて見えることが認められることをもあわせ考えると、前記供述は、実際に良子がピアノの前の椅子に座つていたことを目撃し経験したものであるからこそ供述し得たものと考えられる。

(5) 原判決は、被告人は、司法警察員に対する昭和四一年九月二八日付供述調書、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において、「良子の首の右横で紐をかけて交差し、力一杯絞めつけた。」と述べ、医師松倉豊治成作の鑑定書、前記司法警察員作成の検証調書により認められる良子の死体頸部に残されていた絞痕が、紐を頸部に纏絡し、右側前頸部で交差、絞搾したことによつて生じたものであるという事実と一致するが被告人は原審公判において、立つていた良子の首をその右横から絞めてそのまま同女が倒れたと供述したので、それなら同女は右が上になつて倒れることになるので、絞殺後同女の首の右側で紐をこま結びに結んだと供述した。」と弁解するが、右弁解は首肯しえないものではなく、これを虚偽と断ずるまでの証拠はない、というのである。

しかし、原審第一四回公判における被告人の供述を検討してみても、この点について取調警察官の示唆ないし誘導の疑はうかがわれず、被告人の右原審第一四回公判における弁解は単なる否認のための弁解としか受け取れず、前記司法警察員及び検察官に対する供述は被告人が自ら経験したことをそのまま供述したものと考えられる。

(6) 原判決は、被告人は、司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付、同月二八日付各供述調書及び検察官に対する同年一〇月五日付、同月八日付供述調書において、「死体の移動後、奥六畳の間に入り、北側の押入れの布団の上にあつた毛布かタオルのようなものを二枚持つて来て、死体の上にかけてやつた。色は水色とピンクであつた。」と述べ、前記司法警察員作成の検証調書、原審第二回公判調書中の証人山田ヒサの供述記載部分によれば、山田ヒサが最初に良子の死体を発見したとき、同女の死体の上にピンク色のタオルケットが被せられ、死体の下に水色のタオルケットが敷かれており、右二枚のタオルケットは六畳の間の押入れの上段の布団の上に置かれてあつたものであることが認められるから、右被告人の供述は、同女の死体の上に掛け物があつたこと、その色、枚数、出所の点において右証言によつて認められる事実と一致するところ、

(イ) 被告人は、「死体の上に掛物をかけたと供述したのは、警察で最初に自白した時、取調官から『上にかけてあつたなにはどこから出した。』と聞かれ、夏昼寝などする時にタオルか毛布を腹にかけることがあるので、そのような物が死体の上にかけてあつたものと考え、白つぽい毛布のようなものをかけたと供述した。」と弁解するが、被告人の自白当時、警察官においてタオルケットのことを知つていたことは明らかであつて、誘導尋問をする可能性は充分考えられ、また被告人においてタオルケットを毛布のようなものと不正確にしか表現できなかつた点等を考慮すると、右弁解は首肯しえないものではない。

(ロ) 被告人は、「掛物の出所を奥六畳の間の北側押入れの布団の上と供述したのは、山田方の奥六畳の間に押入れのあることは以前から知つていたので、そのような掛物は大体どこの家でも押入れの布団の上あたりにしまつてあるものであるから、そのように供述した。」と弁解するが、被告人は昭和四〇年四、五月頃山田方を訪れて奥六畳の間に置いてある仏壇を見せてもらつたことがあるので、たとえ本件犯行の真犯人でないとしても、奥六畳の間に押入れがあることを知つていたということは充分考えうるところであるから、前記自供は比較的容易に常識から推論できるものであつて、右弁解も首肯できないものではない。

(ハ) 被告人は、「右掛物の色を『ピンク』と『水色』と供述しのは、夏、体の上にかけて寝るものであるから、濃い色であるはずがないと考え、薄い桃色か水色のようなものではなかつたかと思う、こういう具合に答えてあつたかと思う。」と弁解するが、右弁解は必ずしも明確なものではなく、九月一七日付供述調書では「白つぽい」と表現しているところからみると、あるいは取調警察官の誘導があつたのではないかとの疑いがないわけではないが、そうでないとしても、一応ピンクや水色というのは夏の掛物についての常識的な答えであるといえるので、右弁解も首肯しえないものではない。

(ニ) 被告人は、右掛物の枚数を二枚と供述したことについて明確な弁解をしていないが、この点について取調警察官の誘導がなかつたとはいえず、また、二枚とも死体の上にかけたという供述は明らかに客観的事実と矛盾するから、右枚数の点の供述のみを取り出して、これが客観的事実と一致することを、被告人の自白の信用性の判断につき重視することはできない、

というのである。

しかし、右(イ)ないし(ニ)が取調警察官の誘導によつて自供したものであれば、原判決が指摘するように「タオルケットか毛布か」というような不正確な供述ではなく、タオルケットと特定していたであろうし、その色について自白当初「白つぽい」という表現を用いず、はつきりと「ピンク」と「水色」と供述していたであろうし、また「上に二枚かけた」という供述ではなく、二枚のうち「一枚は下に敷き、一枚は上にかけた」という供述になつていなければならない筈である。そして、押収にかかるタオルケット二枚(証第二号、第三号)を見ると、犯行後短時間の間の行動の記憶から、タオルケットを毛布ようのものとの印象を受けていたとしても無理からぬことである。また六畳の間の押入れから持つて来たとの供述は想像にしては余りにも偶然に一致し過ぎ、平易に考えれば、犯行のあつた四畳半の押入れにあつたとし、または四畳半か六畳の間に置いてあつたとしても不自然ではないのに、被告人は自白当初から終始一貫して六畳の間の押入れから持つて来たと供述しており、かつ、押入れの上段の布団の上にあつたという場所の特定についても詳細な点で事実と一致しており、さらにまたタオルケットの二枚の色がピンクと水色に限つたことはなく、二枚とも同じピンクか水色であつてもよく、他の色であつてもよいのであつて、これまた想像にしては余りにも客観的事実と一致し過ぎる。以上の点について捜査官において示唆誘導をした疑いがないことは当審証人藤沢伝の証言、原審証人楊枝寿男、同田代則春の各証言によりうかがわれから、前記被告人の司法警察員及び検察官に対する供述は犯人が実際に経験したことをそのまま物語つているものというべきである。

(7) 原判決は、

(イ) 被告人は、司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付、同月二八日付供述調書及び検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において、「山田方玄関に立つた時、内部からテレビの音が聞えた。」旨述べ、原審証人山田ヒサの証言、中本章子の司法警察員に対する供述調書中の供述記載と符合するが、被告人は原審第七回公判において、「右供述は『テレビの音が鳴つていたのと違うか。』と問われ、子供はテレビの音を大きくして聞いていることが多いと考え供述した弁解し、

(ロ)被告人は、前記各供述調書において、「良子が倒れた後、さらに充分に力を入れて絞めるため、同女の頸部に紐を巻いたまま、その交差点を右手で押えながら、左手で紐の一方の端に二結び目を作り、左右の手を逆にして同様紐の他方の端に二つ結び目を作り、これをすべり止めにして同女の首を絞め、絞め終つた後、同女が生き返ることを怖れてその首に緊縛した紐を首の右側でこま結びに結んだ。」旨述べ、前記司法警察員作成の検証調書により認められる良子の死体頸部に緊縛してあつた紐の両端に二つずつ結び目が作られていた事実及び右紐が同女の右側頸部で真結び(こま結び)に結ばれていた事実に一致するが、被告人は、「右供述は取調警察官から紐の両端に結び目があり、これが良子の首の横で結ばれていたことを示唆されて供述した。」旨弁解し、

(ハ) 被告人は、前記司法警察員に対する各供述調書において、「良子殺害後、死体の頭を北に、押入れの前に両手で押してずらし、足を少し曲げておいた。」旨供述し、山田ヒサが良子の死体を初めて発見したとき、死体は右押入れの前で頭を北向きにして横たわつていたという事実と一致しているところ、被告人は、「右供述は、取調警察官から『死体は頭が表の方に向いていた』と言われ、それと合わせるために供述したものである。」と弁解するが、

右(イ)(ロ)(ハ)記載の客観的事実は、被告人が警察で自白した当時、すでに取調警察官において充分知悉していたところであつたことは明らかであるから取調警察官がそれらの点について被告人を誘導したことは充分考えられ、被告人の(イ)(ロ)(ハ)の自供は、たとえ被告人が真犯人でないとしても、取調警察官から前記の如き誘導があれば、あとは想像で補うことによつて述べることが可能なものと考えられるから、被告人の(イ)(ロ)(ハ)の弁解も首肯できないものではない、というのである。

しかし、原審証人楊枝寿男、同田代則春の各証言、当審第五回公判調書中の証人藤沢伝の証言によれば被告人は当初自供するに当つて涙と共に「本当に私もこれで真人間になります、仏も浮かばれるでしよう」と言つて、順を追つて自供し、取調警察官及び検事において何ら示唆誘導をしておらず、ことに、取調警察官は検察官の指示により紐の実物すら被告人に示さないで慎重に取調をしており、被告人が最初に自白した際の藤沢警部補は、当審第五回公判において首の絞め方、巻き方、紐の端を結んだ結び方、良子を押入れの前に移動させたことについて被告人が自発的に自供し、移動させた状況について別に間取りなどに関する図面を見せずに被告人自身に図面を書いてもらつて調書に添付したことが認められるのであつて、捜査当局が示唆誘導を極力避け、事件の真相の究明に努めていたことが認められるから前記(イ)(ロ)(ハ)の被告人の司法警察員及び検察官に対する自供は、被告人が自ら経験したことを供述したものと考えられる。

(8) 原判決は、被告人は、前記司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付、同月二八日付各供述調書及び検察官に対する同年一〇月七日付供述調書において、「良子絞殺後なにか死体にかけるものはないかと思つて、四畳半の間の開きを開けてみた。」旨供述し、右供述は、司法警察員昭和四一年八月二九日付検証調書中の立会人山田ヒサの指示説明する当日正午頃帰宅したとき、四畳半の間の西北隅の押入れの開き戸が開いていたという事実と一致し、被告人は公判においてこの点について明確な弁解をしないが、取調警察官が被告人の右自供前に右事実を知つていたことは明らかであるから、被告人の右自供も取調警察官から誘導されて述べたという可能性が考えられ、そうでないとしても、被告人は山田の家の模様を以前から知つているのであるから想像して述べることも不可能ではないと思われるというのである。

しかし、捜査当局が取調にあたり示唆誘導を避け真相の究明に努めたことは後記(三)に説示のとおりであつて、被告人がすでに押入れの存在を知つていたからといつて、自らがそこを開けたことまで想像して述べるということは解せないことであるから、被告人の自供は実際に経験した者の供述と認めるべきである。

(二) 犯行の動機、方法、犯行当時の状況等についての被告人の自白の信用性について

(1) 犯行の動機が疑わしいとの点について

原判決は、被告人の自白につき

(イ) 昭和四一年八月二五日といえば、すでに亡妻の祭事をすべき盆も過ぎてしまつた頃であり、被告人において御本尊を必要とする事情は考えられないから、被告人が同日山田方を訪れたものかどうか、疑問が残る。

(ロ) ラジオ代金を完済してからすでに九カ月を経過した頃に、果して小学五年生の子がラジオ代のことを言うであろうか。

(ハ) かりに、言われて立腹したとしても、それは小学五年生の女児の言つたことであり、殺害まで決意するであろうか。もし、かかる動機で本件犯行が行なわれたとするなら、被告人は極めて異常な性格の持主といわなければならないが、異常というべき性格偏倚は認められない。

から被告人の自白は信用性がない、というのである。

しかし、原審証人丹羽高の証言、被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付、検察官に対する同年一〇月五日付各供述調書によれば、被告人は、妻死亡後も御本尊を大切にし、法華経の軸を祭つていたが、山田ヒサから御本尊を置いておいたら大変ですからもらつて帰ると云われて、その際は何げなく御本尊を渡したのであるが、御本尊は亡妻が金を出して寺から受けて来たもので自分の家のものであり、山田が人の弱身につけこんで持ち帰るのはおかしい、当然、自分方で祭るものであり、そうすれば妻も喜ぶだろうと思い、御本尊を求める気持が強く、また、被告人は毎日仏壇を拝み亡妻の供養をしていたことが認められ、本件犯行当日、山田方へ行つて御本尊を取り返そうと思い立つたという被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付、同月二七日付各供述調書中の自供は決して疑わしいことではない。

また、右(ロ)の点については、原審第二回公判において、証人山田ヒサは「家の中でラジオの方はまだだということは話をしたが、お金のことは、まさか、子供には話をしていないし、主人には話をしたが、それを良子が耳にはさむことはないと思う。」と証言するが、良子がこのことを感知していたかどうかは右証言によつては明確ではない。小学五年生といえば、金銭に対する執着もかなりできており、しかも、母が支払の請求に行くのについて被告人方に赴いたこともあり、母ヒサがその請求に相当きびしかつたところから、同じ家に住んで父母の話を洩れ聞いていたことも、充分考えられるところである。従つて、良子において、ラジオ代金をまだ支払つてもらつていないものと思つていて、本件当日被告人に尋ねたとしても決して不思議ではない。

さらに、右(ハ)の点については〈証拠〉によれば、山田ヒサがラジオの代金の請求にやかましく、それが被告人に対してのみならず、被告人の住むアパートの管理人に対し、また被告人の妹丹羽高に対しても度々請求し、丹羽高に対しては相当きつい態度に出たことがあつたため、同女も山田ヒサを嫌悪し、被告人としても内心穏やかでなかつたことがあり、右ラジオ代金はその後支払つたが、御本尊のことともからんで内心快く思つていなかつたことが認められる。しかも、〈証拠〉によれば、被告人は普通では考えられない短気で偏屈者で、一寸したことに腹を立てる一種異常な性格の持主でもあることが認められる。従つて、本件犯行当時、山田方を訪ねた際、良子からラジオ代のことを言われるや、それまで母ヒサに対して抱いていた腹立ちが爆発し、それが良子に向けられるということは十分考えられるところであつて、その旨の被告人の自供は自然であつて、何ら不合理なところはない。

(3) 本件紐が前田弘方のごみ容器から垂れ下つていたとの被告人の捜査官に対する供述が疑わしいとの点について

原判決は右の被告人の供述につき、司法警察員作成の「被疑者が犯行に使用した紐をゴミ箱から拾つたという裏付け捜査」と題する書面(五一一丁以下)によると、前田方において本件紐をごみ容器に捨てた事実はなく、本件犯行の前日である八月二四日午後七時過ぎに同人方家人が右容器にごみを捨て蓋を完全にした際には、本件紐が垂れ下つていた事実はなく、もし、その後に紐が垂れ下つていたことが事実とすれば、右前田方以外の何人かが右紐を捨てたと想像することによつて、辻褄を合わせるよりほかはないのであるが、右紐は、その形状からしてまだ何らかの使用に供しうるものと考えられ、これを蓋を回転しなければ開かないような他人のごみ容器にわざわざ捨てるような者があるだろうか、極めて疑わしく、被告人の右供述は虚偽ではないかとの疑が強いというのである。

しかし、前記(一)(2)に説示の如く、被告人の供述は真実を語るものと認めるべきであつて、押収にかかる紐(証第一号)を検しても、捨てても惜しくないようなものであり、また、ごみ容器の蓋が回転しなければ開かないものといつても、簡単な操作によつて開閉できる仕組のものであるから、一般通行人が捨てたとしても不思議ではない。

(3) 被告人の自白の中に衝立の存在したことについての供述がないことから、被告人の自白が疑わしいとの点について

原判決は、原審証人山田ヒサの供述及び司法警察員作成の昭和四一年八月二九日付検証調書によれば、山田方では本件犯行当時、表四畳半の間の東端に同室の内部を外来者の視線から遮断するため衝立が立てられていたが、衝立があれば、果して山田家の玄関土間に入つた者がそこから四畳半の間のピアノの前の椅子に腰掛けている者を見ることができるかどうか極めて疑わしく、また被告人が捜査官に対し供述するような行動をとるに際し、右の衝立が大きな障碍となるはずであるのに、右衝立の存在について全く供述するところのない被告人の自供は、極めて不自然であるというのである。

なるほど、右衝立についての被告人の供述は、わずかに検察官に対する昭和四一年一〇月八日付供述調書に「衝立があつたかどうかわかりません。」との供述があるにすぎないけれども、さきに(一)(4)に説示の如く、玄関土間に立てば、良子と同身長の者がピアノの椅子に腰掛けていた場合にその頭部の一部が見え、また衝立はビニールの簾であるからこれを通してピアノの椅子に腰かけている人の姿は勿論四畳半の人の姿がすけて見えることが認められる。そして、被告人が捜査官に対し供述するような良子に飛びかかる行動をとつたとすれば、四畳半の間に入る際に自分が通れるぐらいに衝立をどちらかへ押しやつたものと考えるほかないが、そういう行動をとつたのに、被告人がその点について全く供述しないのは、右衝立の存在を意識しなくとも四畳半の間にいた良子の存在が認められたことと、被告人において、激昂の余り気持が転倒した状態のもとに良子に飛びかかる時間的な行動の際のことであるから、その間に衝立を多少押しやつて移動させることは殆んど無我夢中のうちでなしたため、衝立の存在についてすら明確な記憶が残らなかつたものと考えるのが相当である。

(4) 死体には手指によると思われる前頸部扼痕、口部圧痕があるのに、被告人の自白にはこれに添わないものがあるから、被告人の殺害の自白自体疑わしいとの点について

原判決は、医師松倉豊治の鑑定書によると、被害者良子の死体には、項頸部絞痕のほかに、前頸部扼痕、口部圧痕があり、右項頸部絞痕は前記紐による同部の絞搾によるものであるが、前頸部扼痕は右絞頸に先立ち加害者がその手指をもつて同部を扼圧したことによつて生じたものであり、口部圧痕は右扼圧と同時またはその前に加害者が鼻口部を塞ごうとして生じた可能性の強いものであることが認められるが、被告人は、紐で絞めただけで、手で絞めたことも口の付近を手で押えたことも全然記憶がない旨述べていて、被告人の自白するような良子殺害の方法によつては、良子の死体に前記前頸部扼痕及び口部圧痕が残されていた事実を解明することはできず、項頸部絞搾により良子を殺害したことを自白するに至つた被告人が前頸部を手指で絞めたり、口部を手で押えたことについて記憶を失つたり、故意に隠すということは考えられないから、客観的事実に添わない被告人の殺害方法に関する自白は疑わしい、というのである。

しかし、被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付(一〇二三丁裏)、同月二八日付(一〇三四丁〜一〇三五丁)、検察官に対する同年一〇月五日付(一〇七八丁裏〜一〇七九丁表)各供述調書及び司法警察員作成の「殺害の手段方法について復命」と題する書面(二二〇丁〜二二二丁)を仔細に検討すると、交差している紐にすべり止めの結び目を作るため片方の手の示指と中指の二本の指を交差している紐と前頸部との間にそう入し、これをねじるようにして締めつけながら、片方の手で結び目を作つているのであつて、その際に手指全体の力が前頸部を押えることとなつて前頸部扼痕を生じさせることとなつたと判断しても不合理ではなく、また、被告人が気が転倒している状態においては、絞殺に夢中になつていた時の行動について一部始終を順序よく意識し記憶していることのほうがむしろ不思議であり、このような場合において自己の行動の一部を意識しないこともよくあり得るのであるが、被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月一七日付供述調書(一〇二二丁裏)及び検察官に対する同年一〇月五日付供述調書(一〇七五丁裏)によれば、被告人が四畳半の間に上りかけたとき、これを見た良子が「おかあちやん」と大声を立てたので、被告人は同女に飛びかかるようにして絞頸したというのであるが、このとき、被告人が無意識のうちに良子の口を塞ぎ、前頸部を扼圧したことも十分考えられ、そのために前頸部に扼痕、口部に圧痕が生じたとも考えられるのである。

(5) 被害者良子が抵抗を示したことについて言及していない被告人の自白は疑わしいとの点について

原判決は、〈証拠〉によれば、被告人は当時七三歳の老人で足も丈夫ではなく、その握力も右手一五、左手一三でかなり弱かつたことが認められ、被告人の検察官に対する昭和四一年一〇月五日付供述調書によれば、被告人は、良子が倒れるに至るまでの絞頸に五分ないし一〇分を要した旨供述しており、これが真実であるならば、同女は容易には失神転倒しなかつたことになり、その間激しく被告人に抵抗したであろうことは容易に推測できるのに、同女から抵抗を受けたことについて何ら言及していない被告人の自白は不自然であり、また貧弱な体力しか持たない被告人が果して同女を転倒せしめるまで絞頸しえたかどうか疑問で被告人の自白は極めて疑わしい、というのである。

なるほど、前掲司法警察員作成の「沢木四郎の握力測定について」と題する書面によれば、被告人の握力は弱いことがうかがわれるけれども、脚力が普通或いはそれ以上に強いと思われることは被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月二七日付(一〇〇九丁〜一〇一〇丁)同月二八日付(一〇三九丁裏)、同月二九日付(一一〇〇丁)各供述調書及び原審第七回公判調書中の被告人の供述(六九四丁〜六九五丁)により認められるから、被告人の体力全体がそれ程弱つていたと考えられず、殺害を決意し激昂したという異常な場合にあつては、平常以上に大きな力、素早い動作をすることも十分考えられ、他方、異常なまでの形相をしていたと思われる被告人の再度突如として入つて来た姿を見て、たとい外観上相当の身体をもつているといつても、やはりまだ小学五年生にすぎない被害者良子が恐怖のあまり抵抗する力を失い、そのままの状態で被告人から絞頸され、次第に意識もうろうの状態に陥つて遂に窒息死に至つたものと考えても、決して経験則上不合理、不自然ではないと考えられる。

(6) 紐の両側に結び目を作るということはその可能性に疑があるから、被告人の供述は疑わしいという点について

原判決は、被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月二八日付、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書によれば、被告人は良子が倒れたのちその頸部に巻いていた紐にすべり止めの結び目を両端にそれぞれ二つずつ作つた旨供述しているが、長さ約八二センチメートルの紐を同女に巻きつけて、片手で、それぞれその紐の両側に二つずつの結び目を作ることは殆んど不可能に近く、司法警察員楊枝寿男ほか一名作成の「殺害の手段方法について復命」と題する書面は被告人が結び目を作る実演をしたことがないのにその旨虚偽の事実を記載した書面であり、証人田代則春は検察官として取調の際被告人が実に器用に結び目のつけ方を実演した旨証言するが、実演に使用された紐の長さ、結び目の形態等についてどれだけの考慮を払つたうえ実演したものか疑わしく、証拠として十分ではないから、被告人の右供述は、結び目を作る可能性において疑いがあるから信用できない、というのである。

しかしながら、原審証人原憲三の証言(六三二丁)及び当審証人柴原茂の証言によれば、楊枝巡査部長、原巡査が被告人を取り調べた際(その日時については原審証人楊枝寿男は昭和四一年九月二八日という)、柴原茂巡査も同席の席上、被告人が犯人、原巡査が被害者となつて、本件の紐と類似の長さが大体六〇センチメートル位の布紐を用いて殺害の方法について実演させ、被告人が自供する方法によつて、片手でそれぞれその紐の両側に二つずつの結び目を作ることができたこと、原審第一四回公判において証人楊枝寿男が柴原刑事が被害者、原刑事が犯人となつて被告人の説明により実演させ、絞める具合が非常にわかりにくかつたので本人にも多少やらせた旨証言しているのは同証人の感違いであつて、楊枝寿男作成の「殺害の手段方法について復命」と題する書面(二二〇丁以下)の記載が事実であることが認められる。尤も右書面に添付の図面は、右実演に立ち会つていない木場亮二巡査部長が画が巧いところから描いたものであることが、右柴原証人の証言によつて認められ、実演に立ち会わない者が図示することは甚だ妥当を欠くけれども、右図示について実演と誤りのないことが右証言によつて認められるから、木場巡査部長が図示したことから、直ちに右書面の証拠価値を否定し去ることはできない。さらに被告人の取調に当つた田代則春検事は、原審証人として、被告人から殺害方法を聞いて、あとで紐を渡して結び目を作る実演をさせ、被告人の自供する方法で結び目を作ることができたことが認められる。従つて、原判決が前記復命書の内容を虚偽と断じたのは誤りといわなければならない。

(7) 押入れの前にあつた良子の死体の顔の向きについての被告人の自供が疑わしいという点について

原判決は、右の死体の顔の向いていた方向について被告人の司法警察員に対する昭和四一年九月二八日付供述調書において「やや玄関の方」(玄関の方は東方)、検察官に対する同年一〇月五日付供述調書において「北向き」と述べ、山田ヒサは、良子の死体を最初に発見したとき、同女は右を下にし顔は押入れの方(西方)に向けて倒れていた旨供述し、矛盾している、というのである。

しかし、被告人は検察官に対する昭和四一年一〇月五日付供述調書において、頭の方はやや北東、足の方はやや西南の方を向かせ、顔は北側を向いていた、体も同じであると供述し、山田ヒサは原審第二回公判において四畳半の押入れのそばで頭を北向き(窓の方)にし、足を南に向け、体を心もち押入れの方(西の方)に向けていた旨供述し、若干異なることが認められるけれども、大きな相異ではなく、この程度の相異から、被告人の供述自体を疑わしいとすることは飛躍にすぎる。

(8) タオルケットを二枚とも死体の上にかけたという被告人の供述が事実と矛盾し疑わしいという点について

原判決は、前記(一)の(6)に記載の如く、被告人は毛布かタオルのようなもの二枚を持ち出して二枚とも良子の死体の上にかけたと供述するが、山田ヒサの警察の検証の際及び原審証人として第二回公判において、死体を最初に発見したとき、死体の上にピンクのタオルケット一枚がかけられており、同女の下に水色のタオルケット一枚が敷かれていた旨供述し、相矛盾しているというのである。しかし、山田ヒサの供述は死体発見後間もなく行なわれた検証の際の供述であるから信用性があるけれども、被告人の供述は事件後約一カ月してからの供述であるから、タオルケットを二枚ともかけたのか、一枚をかけ一枚を下に敷いたのかその点の記憶が日時の経過とともにあいまいになることは考えられ、この程度の相異をもつて、被告人の自白全体が誤りであると断定することはできない。

(9)山田方での物色や盗難について全く供述していない被告人の自供は疑わしいという点について

原判決は、証拠によれば、本件犯行当日の午前七時三〇分から正午までの間に山田方六畳の間が物色された形跡があり、小箱、傘等がなくなり盗難にかかつたことが認められ、良子殺害の犯人の仕業である疑いが極めて濃厚であるが、被告人はこの点について全く供述していないことからすると、被告人の自白は疑わしい、というのである。

しかし、〈証拠〉を総合すると、果して本件犯行時に物色がなされ、小箱、傘等が盗難にかかつたものかを認定することは困難であるし、被告人が山田方で物色、窃盗をしていることを供述していないからといつて、このことから被告人の殺害の自白まで虚偽であると断定することはできない。

(三)  被告人の自白の信用性一般について

(1) 〈証拠〉によれば、昭和四一年九月一六日午後詐欺事件につき被告人に対し勾留状を執行した後、楊枝、原の両警察官が詐欺事件についての取調に平行して、本件殺人の被害者方との知合関係、出入関係等につき被告人から事情を聴取中「心の整理をしたいから、明日まで待つてほしい。」との申し出があつたので、翌一七日藤沢伝警部補、原巡査の両名が取調に当り、藤沢警部補が取調に際し、「やつたのでなければ何も話す必要はない。本当にやつたのであれば話してくれ、君も年をとつている、君の言うことは十分聞くから、ゆつくり考えて話してくれ」と話したところ、被告人は、涙を流して、動機から供述し始め、殺害の状況について詳細に自白し、参考図面を見ないで犯行現場の見取図を書いて説明し、涙とともに『本当に自分もこれで真人間になります。仏もこれで浮かばれることでしよう』と言つて供述したこと、被告人も右自白したときの状況について原審第四回公判において「一七、一八日に代りの警察官が来て、明日言うからと言つたようだから、その時のことを言つてもらいたいと穏かに言つたので、私はありのままを言つた」旨述べており、殺人事件で被告人を逮捕、勾留後、楊枝、原両警察官が被告人の取調に当り詳細な自白を得たが、楊枝巡査部長らは班長の今西警部から「何でもないことでも老人というものはわからんから、おかしなことがあつたら、我々が注目の的になる、つまらんことはするな。」と注意されて取調に当り、七〇歳を越えた老人の被告人が真犯人であるかどうかについて、その自供と裏付証拠を検討しながら、田代検事の命により犯行供用物件たる紐すら被告人に示さずに捜査に当つていることが認められること、

(2) 原審証人田代則春の証言によれば、同検事は、取調の初めに警察官を退室させたうえ、被告人に対し、「本当にやつたかどうか、やつたのでなければ、やつていないと今のうちに言えば、何ら不利益を受けることはない。」旨相当長時間説諭したが、被告人は、自分がやつたことに絶対間違いないと述べて、犯行の模様について詳細に自白し、調べの途中においても、本当に悪かつたと言つて涙を流し、検察官からやつていなかつたら、そのように言え、やつたとしたら相当の刑になるが、それも承知かと聞くと、絶対に自分がやつたことに間違いない、刑は十分に承知している旨供述していたことが認められること、

(3) 大阪拘置所在監中の被告人から楊枝、原両警察官に宛てた手紙(六六六丁以下)によれば、被告人は起訴後一週間を経た昭和四一年一〇月一五日付手紙をもつて、両警察官から感想を求められていた返事として、良子を殺害した悔悟の気持を述べ、我が子を奪われた遺族の心情に思いを馳せ、「身を以て」謝罪する以外にない旨の切々たる心情を寄せていることが認められること、

(4) 領置にかかる手紙(証第七号)によれば、被告人は同年一一月七日付手紙をもつて田代検事に対し、一瞬の逆上に何もかも無にしてしまい、一期の不覚であつた。山田方遺族を思うと、口や筆ではお詑びできず、ただ一つ身を以てのみ謝罪したい旨の心情を綴り、さらに追伸として、山田方で約束どおり御本尊を返してくれていたら、このたびの事件は当然起らず、山田ヒサの貸しに対する厳しさと借りに対する責任を持たない気持が不埓だと思う旨書き送つていることが認められること、

(5) 原審第一三回公判調書によれば、原審弁護人の被告人に対する質問及び答によれば、原審弁護人が被告人に面会した際「本当にやつたのか、もしやつていないのなら、やつていないと言つてもよいのだよ。」と言われたのに対しても、自分が犯した旨自白し(一一六八丁)、第一回公判においても事実を認めていたことが認められること、

(6) 本件記録によれば、被告人は、原審第七回公判において、犯行当日の八月二五日には友人の張来発方に行なつていたと思うが、はつきり覚えていない旨、あいまいなアリバイを供述するが、原審第一〇回公判における証人張来発、同丹羽高の証言によつても、当日張方にも丹羽方にも行つたことを認めるには足りず、かりに前記アリバイがあるならば、取調の際に主張し得たのに、その主張ないし弁解がなされていないことが認められること、

(7) 被告人の自白調書の内容を検討しても、実際に経験したものでなければ供述し得ない供述であることが認められること、

加うるに、前記(一)(二)において検討を加えた結果をもあわせ考えると、被告人の自供が一部客観的事実と一致する点について捜査官による強制誘導によつて虚偽を述べたものとは認められず、また、被告人の自供の細部にくい違いや、不明確な点があるけれども、被告人自身一部の細かい点を見落したり、記憶していないことがあつても、何ら不自然ではなく、まして、これらの点を捉えて被告人の本件自白を全面的に否定することはできず、結局、被告人の自白は十分信用することができるのである。

原判決は、被告人が原審第四回公判において犯行を否認するに至つた事情として、被告人は、九月一五日に詐欺の事実で逮捕され、翌一六日勾留された後、楊枝、原両警察官から本件殺人の自供を迫られ、痛めつけれらるし、詐欺の件で生活保護も受けられなくなるだろうし、家もないといつたことから養老院へ行くつもりで刑務所に入ろうと考え、翌一七日藤沢警部の取調に際し、虚偽の自白をして、その後も自白をして来たが、公判中妹から手紙が来てショックを受け、また張来発から出所の暁は万事引受けるから、自分のところへ来いという手紙をもらつたことから、それまでいいかげんな自白をして皆に迷惑をかけたと思い、否認するに至つたと弁解し、被告人がその弁解の動機から刑務所入りを決意し、右決意のもとに本件犯行を自白するに至つたものとすれば、そのような決意が動かない限り、自ら真犯人らしく振舞うはずであるから、被告人が公判廷において、また弁護人に対しても本件犯行を認め、また取調官に手紙を出したとしても不思議ではなく、悔悟の情を綴つているのはえん罪の刑の軽からんことを願う本能的意思の表われと解することができるというけれども、さきに説示したところから明らかな如く、被告人は捜査段階において涙ながらに悔悟し、贖罪を誓つたものの、日が経つにつれ、人間本来の自己保存本能が強まり、前記丹羽、張の手紙が契機となつて、自己の刑責を免れんがため全面否認するに至つたものと認めるべきである。

以上要するに、被告人の自白は十分信用性があるから、弁護人の所論は採用しがたく、原判決は信用性に関し判断を誤つたものといわなければならない。

そうすると、本件公訴事実の証明は十分であり、これを証拠不十分とする原判決は、判決に影響を及ぼすことが明らかな事実誤認の違法を犯したものとして、到底破棄を免れない。検察官の論旨は理由がある。

よつて、刑事訴訟法三九七条一項、三八二条により原判決を破棄し、同法四〇〇条但書に従い、さらに次のとおり自判する。

(罪となるべき事実)

被告人は、昭和三三年秋頃から妻マチと大阪府守口市八雲西町二丁目一一一番地御園荘アパートに住み、電器部品の組立や筆耕等の内職をしながら生活保護を受けて生活していたものであるが、たまたま妻マチが昭和三七年頃創価学会に入信し、昭和三八年春頃創価学会の関西第一本部大阪第九総支部今市支部大守地区田村班の守口市八雲旧八番二五六番地山田節治が組長である山田組に所属するようになつてから、同人の妻山田ヒサを知るに至つたものなるところ、昭和三九年一〇月頃妻マチが病臥中に、山田ヒサの好意で同人からラジオを借り受けていたので、昭和四〇年一月一八日妻マチの死亡に伴い、同年二月末頃これを山田方に返却したが、同年四月初頃ヒサとの話合でこれを二、〇〇〇円で譲り受けることとなり、右ラジオを自宅に持ち帰つたけれども、その代金を支払わないため、同女から被告人は勿論、被告人の妹である丹羽高に対しても度重なる請求を受け、結局、被告人が同年一〇月頃一、〇〇〇円、同年一一月頃一、〇〇〇円をそれぞれ支払い完済したものの、ヒサの厳しい態度を快からず思つていた。他方、妻マチ死亡後、残された被告人はキリスト教を信仰しているところから、山田ヒサの申し出により、同女に対し何気なく御本尊を返還したが、同年一二月頃、亡妻の一周忌も近づいて来たので御本尊を返してもらつて亡妻の祀りをしてやろうと考え、山田方を訪ねてその返還方を依頼し、同女から田村班長に尋ねてみたうえで返事をする旨言われたものと思つて、その返事を待つたが、何の返事もなく、昭和四一年八月二五日朝、ふと御本尊のことを思い出してこれを取り戻そうと考え、同日午前八時過頃山田方を訪ねたところ、同人の養女の山田良子(当時一〇歳、小学五年生)が、ヒサが勤めに出たことを応答したので帰りかけたところ、同女から「おつちやん、ラジオの金は」と問われヒサは子供にまで自分がラジオの代金を払つていないと言つているのかと思うと、生来の短気、かつ偏倚な性格から、ヒサや良子に対する憤激の情押さえがたく、同市八雲旧八番二三八番地前田スタジオこと前田弘北側路上に来たとき、たまたま路端に置かれていたポリエチレン製ごみ容器から垂れていた長さ約八二センチ、幅約三センチメートルの婦人服用バンドの布製細紐を発見するや、この紐で良子を絞殺してそのうつぷんを晴らそうと考え、これを取り出し、直ちに再度、山田方に引き返し、玄関に入つたところ、表四畳半の間にいた同女が被告人の異様な態度におそれて「お母ちやん」と叫んだので、四畳半の間において所携の細紐を同女の頸部に巻いて絞めつけ、よつて間もなく、項頸部絞扼により窒息死するに至らしめて、殺害したものである。

(証拠の標目)〈略〉

(法令の適用)

法律を適用すると、被告人の判示行為は刑法一九九条に該当するところ、情状についてみるに、本件は被告人の短気かつ偏倚な性格からわずか一〇歳の被害者の言葉に、平素その養母に抱いていたうつぷんが爆発し、被害者及びその養母に対する憤激の情から、被害者を殺害するに至つたという事案であつて、その殺害の方法は残忍であり、このため生命を奪われた被害者のうらめしさを思い、また被害者を奪われた養父母の悲嘆、驚愕を考えると、犯情はきわめて悪質であり、被告人の刑責は重大であるといわなければならず、被告人が妻に死別し、子供もなく、老令の身で一人淋しく貧困な生活を送つていること、その他記録にあらわれた諸般の事情を考慮したうえ、所定刑中有期懲役刑を選択し、その所定刑期範囲内で被告人を懲役八年に処し、刑法二一条により原審における未決勾留日数中五〇〇日を右本刑に算入し、原審及び当審の訴訟費用の負担免除につき刑事訴訟法一八一条一項但書を適用して、主文二、三項のとおり判決する。(竹沢喜代治 尾輝鼻次 知識融治)

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